「家庭日記」は、同じ大学の同級生ふたりの、人生の選択と結果について描かれた物語です。
この映画を見て感じた時代の差のようなものは、恋人を捨てて医者としての将来の発展に有利な養子の道へ入った方が、どう見ても幸せになっているという事です。
今の感覚ならこういう男は“卑劣漢”として断罪され、最後は不幸になっていそうなものです。
ところがこの映画では、恋愛より打算を選んだ方が幸せになり、彼女に対してちゃんと責任を取った方が不幸になっています。
それも別に前者が悪人で、後者が善人みたいな表現はされていません。
それぞれにマトモな感覚を持った常識人として描かれています。
こうなると「こういうのもアリかなぁ」という気分もしてきます。
いつも悩み事で沈んでいる辻(上原謙)
辻は医学生の身ですが、女給の卯女(桑野通子)と深い仲になり、将来の選択に困っています。
なぜかはハッキリと表現されていませんが、どうやら彼女には子供が出来ているのです。
彼は責任感が強いので彼女を捨てることが出来ず、かといって責任を取ったのでは将来身を立てられそうにありません。
家は医者の名家で、女給との結婚など許してはくれません。
卯女に対して責任を取ろうと思えば、家を捨てなければならないという選択を迫られているのです。
卯女は「私が働くから」と辻に結婚を迫りますが、辻は妻に女給をさせる事など恥だと思っており、これからの生活を考えると頭が痛くなります。
辻は勉強が得意ではなかったようで、大学に通いながらも写真にハマっていました。
その趣味が功を奏し、大連に渡るという条件で写真の仕事に就く事ができ、二人で駆け落ちする事にしたのです。
世渡りが上手く、自信に満ちた修三(佐分利信)
辻と同級生の修三にも恋人がいて、彼女は下宿している家の娘です。
ところが修三は生まれが貧しく、大学に入ったは良いものの将来の発展は困難な事が目に見えています。
そんな修三に、お金持ちの婿養子の話が舞い込みます。
修三はこのチャンスを逃すことなく、恋人とは別れてしまいます。
修三の恋人はしっかりとした心ある女性で、決して泣き言は言いません。
「あなたが幸せになれるなら」と涙を呑んで別れを受け入れます。
そしてお互いのラブレターを燃やし、過去を精算するという儀式までするのでした。
それぞれの選択の結果は・・・?
このストーリーは、二人の男の選択の行く末の物語です。
そしてどちらが幸せになったかというと、修三の方だから驚きです。
修三は婿養子の立場でいながら、いかにも一家の主の威厳を示し、奥さんは夫を頼り切っています。
どうやら仕事も順調に行っているようで、生活は安定しています。
一方、辻の方はどうなったかと言うと、二人の愛は醒めきっています。
今では子供だけが生き甲斐になっているようです。
卯女が大連の空気に合わず、この度日本へ帰って来きた事で二人は久しぶりに再会します。
辻の生活は何とかなってはいるようですが、彼はどこか自信を無くしてオドオドしている様子です。
おまけに修三の奥さんが素敵に見えてしょうがありません。
しまいには、彼女に対してただならぬ感情まで抱いてしまいます。
そして親との関係修復に失敗した辻は、実家に子供を取られてしまい、絶望した卯女は自殺を図るのです。
二人の男のそれぞれの選択の結果は、残念ながらどう見ても辻の方が失敗に見えてしまいます。
ただ辻の人生の失敗の原因は、女性の問題だけだったんだろうか?という疑問が残りました。
これは私の想像ですが、辻はあまり勉強が出来ず、父親の医院を継ぐ自信が無かったのではないか?という風にも見えるのです。
卯女との関係も「責任ありき」という感じだし、勉強よりも写真に興味があったりと、本当は医者になるのが嫌だったのではないでしょうか。
卯女は、責任を取ってもらったは良いけど本当の愛情を得られず、ひがみっぽい性格になってしまったように思えます。
1938年公開
この映画では、卯女が随分いやな女として描かれているのが気になりました。
それは水商売の女だからというよりは「西洋かぶれした女」への嫌悪感という風にも見え、個人主義的で物欲が強く、言動に奥ゆかしさが欠けている様子が描かれています。
友達の前で夫を「ウチの意気地なし」などと罵ったり、使いっ走りのように扱って場の空気を凍りつかせたりする様子は、あまり日本女性的ではありません。
奥さん同士の時も、過保護に育ってきた修三の奥さんに対して「子供みたいな」と鼻で笑う態度は、失礼な感じです。
辻の父親に子供を取られてパニックになり「その子は自分の子じゃない」と言ったりする所は、ほとんど知性が欠けている気がします。
これらの卯女の描写には、急激に西洋化する社会で、日本の古来の美徳が危険にさらされているという裏テーマを感じました。
この映画には、少し腑に落ちない点もありました。
修三が元恋人の為に援助を申し出るというエピソードは、どう考えても違和感があります。
二人が別れる時に「守り通した」というセリフが出てきます、それならばそこまで償いをする必要があるのでしょうか?
学生だった辻が決断を迫られる場面も、卯女の妊娠がハッキリと表現されていない為に話が分かりにくくなっています。
この頃の映画は、それほど「婚前交渉」を表現する事がタブーだったのでしょうか?
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