放浪記

「放浪記」は、波乱に満ちた人生を送った作家・林芙美子の私小説を元に作られた映画です。

作家を目指す若者たちの希望に満ちたエネルギーや挫折、荒んだ生活に、青春時代の激しさを感じました。
理想と現実の隔たりに翻弄されつつも、自分だけの道を見出して成功していく展開を見ていると、誰でも何かしら光るものを持っている事を教えられます。

この映画の特徴は、小説家・林芙美子のダークな内面まで踏み込んで、リアルな心情を描いている所です。
世の中に対する苦々しい思いや皮肉な感情、恋をした時の舞い上がった心境などが、心の中の「つぶやき」として表現されているのが楽しいです。

個人的には林芙美子の人生を描いたドキュメンタリーという側面よりも、物語の中に「独り言」として織り込まれている彼女の洞察の深さや表現力の豊かさに驚くものがありました。

文学好きの宿無し労働者、芙美子(高峰秀子)

芙美子は行商人の親に育てられたため、いつも旅をしながら暮らしていました。
何の基盤も持たない「放浪者」といった境遇なので、頼りになるのは自分の身一つだけです。

ただ頭が良かったらしく、自分で働きながら女学校だけは出たし、詩や文章を読んだり書いたりするのが大好きです。
いつもお腹をすかせていますが、芙美子にとって文学と美男はどうにもやめられない「嗜好品」です。
本を買っては後で後悔し、イケメンに惚れては騙されるという経験を繰り返しています。

そんな彼女は、どんなに貧苦に痛めつけられても、不思議と強いプライドのようなものを持っています。
それは自分が単なる労働者ではなく、物書きなのだという意識です。
人生の9割は労働に費やしていても心の中は作家であり、実際にそれが現実になっていくのです。

高峰秀子さんの出演している映画


美人でお嬢さま育ちの、日夏京子(草笛光子)

日夏京子は、芙美子が欲しくても手に入らないものを全て持っています。
それは生まれ持った富と美貌であり、おまけに芙美子が憧れるような芸術にどっぷりと浸った生活をしています。

芙美子とは同じ男を取り合う事で知り合うのですが、京子はお金の力でたやすく男を拐ってしまいます。
ところが暫く経ったある時、この京子が芙美子の働くカフェーに現れます。
京子は、男があまり自分勝手なので別れてしまったと言います。
これは、何もかも許していたのに捨てられた芙美子からすると、かなり面白くない話です。

ところが京子は芙美子に、あろうことか同人誌に共著で投稿しないかという話を持ちかけに来たのでした。
そして京子は、仲間を連れていました。
お金持ちのボンボンや共産主義者など立場は様々ですが、みんな作家の卵たちです。
この仲間たちが、一緒に同人誌に投稿しようと誘うのです。

芙美子は京子への恨みも忘れて、この話に飛びつきます。
結局、芙美子にとって芸術への憧れは抗い難く、男がらみの恨みなどは二の次なのかもしれません。

草笛光子さんの出演している映画


真剣勝負の世界は甘くなかった

芙美子と京子は、その後も良きライバルとして友だちのような関係になっていきます。

そして今度は、同人誌ではなく有名な雑誌への掲載が、二人のうちの一人だけに与えられるというチャンスが巡って来ます。
二人は奮い立ち「どっちが負けても、恨みっこなしヨ」という感じで、意気込みをあらわにします。

ところがこのタイミングで、芙美子に悲劇が起こります。
そのとき同棲していた男とは ずっと良い関係では無かったのですが、とうとうお互いに爆発して破局を迎えてしまったのです。

一方京子は、作家仲間の中でもお金持ちで性格も穏やかな男に求婚され、二人は女の人生としては明暗を分けた形になってしまいます。
京子は相手の実家に挨拶に行くので時間が無く、編集者へ渡す原稿を、芙美子に託す事にしました。
ところがその日、芙美子は男と別れて家を出ていく事になってしまったのです。

結果として雑誌に掲載が決まったのは、芙美子の方でした。
ところが後で、芙美子は京子の原稿を、納期の期限を過ぎてから渡していたという事実が判明するのです。

成瀬巳喜男さんの監督映画


1962年公開

この映画は1962年の公開で、1930年に書かれた原作を元にして当時の様子を再現した映画です。
たぶんその頃の記憶が残っている制作者による再現なので、ディティールなどには相当こだわっている感じがします。

カフェーの様子や流行歌、衣装などにとても雰囲気があり、当時の人が何気なく描いたものより、ある意味 時代感覚が凝縮されているかもしれないと思いました。


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