恋文[DVD]
「恋文」は、兵隊として戦地に赴いた男が、どこか戦後の日本に馴染めずにいる姿が描かれています。

この作品でいちばん印象に残ったのは、復興期の渋谷の街で古本屋や代筆屋をして暮らす、ファンキーな兄弟の生活です。

何もかも手探り状態のショボい感じだけど、小さな商いを自分の手で作り上げていく愉しさがありました。

主人公が、行方不明の想い人を探して街を彷徨いながら、米兵の情婦たちのための恋文代筆にその想いを込める・・・というエピソードに心惹かれました。

過去の世界の中に生きる、礼吉(森雅之)


礼吉は元軍人で、敗戦後の東京で失意の下に空虚な生活をしています。

弟の世話になり、翻訳のアルバイトで僅かな収入を得てはいますが、何の目的も無いながらも何かを思いつめている様子です。

じつは礼吉には忘れられない心の恋人がいて、戦争の混乱で消息がわからなくなったその人・道子を探し歩いているのでした。

礼吉と道子は両思いでしたが、道子は親に反対されて泣く泣く別の人と結婚してしまいました。

ところが道子は、お嫁に行くとき礼吉にそっと手紙を送ります。
その手紙には道子の気持ちが書いてあり、礼吉はそれ以来道子の事が諦めきれなかったのでした。

今を精一杯生きるしっかり者の弟、洋(道三重三)


礼吉の弟・洋は、行動力のある頼もしい人で、困難な時勢にも負けずに道を切り開こうとするガッツを持っています。

彼は古本屋を片っ端から巡り、神田の市場で相場の値段で売ってサヤを取るという、今で言う「せどり」のような仕事をしています。
そして更に路地裏の空きスペースに小さな店を出すなどして、バリバリ働くのでした。

そんな洋から見ると、礼吉は実力はあるのにモチベーションが低く、まるで人生を棒に振っているように見えます。
何かと葉っぱをかけたり、結婚を奨励したりして、兄の事を心配するのでした。

礼吉の心境の変化

礼吉はある日、兵学校時代の友人・山路(宇野重吉)に偶然出会います。
山路には妻も子もあり、戦後の混乱期を渡っていくのは大変でしたが、そんな山路が行き着いた職業はかなり変わったものでした。

それは、本国へ帰った米兵と繋がりのあった女性からの「代筆」の依頼です。

その内容はすべて「ラブレター」で、実質は送金を催促するという類のものでした。
礼吉も山路も語学が得意らしく、英語のスキルが活かせるという訳です。

これまでずっと働く意欲を失っていた礼吉は、不思議とこの山路とともに代筆を始めるようになります。

この話を聞いた洋は、礼吉にもっとまっとうな仕事をして欲しくて反対しますが、結局は礼吉の意志を尊重して好きにさせる事にしました。

礼吉の恋文は、道子への想いが投影され、美しく心を打つものになっていきます。

ところが礼吉のいる代筆屋に、行方不明だった道子が依頼に訪れるのでした。

1953年公開

この映画の公開は『サンフランシスコ講和条約』の公布された翌年です。

日本の主権回復を機に、進駐軍が全て帰還したわけではありませんが、少なくとも名称は「在日米軍」という立場になりました。

こういった背景から、この頃から米兵と日本女性の関係について、ようやく物が言える状態になったのではないでしょうか。

映画では、女性たちが米兵と別れた後も手紙をやりとりして、送金を受けていた事が描かれています。
これは実話に基づいたエピソードのようで、渋谷文化村通りには「恋文横丁跡」という史跡があるようです。

そして弟の古本屋に雑誌を売りに来る女性は「立川からよ」と言い、道子の昔の仲間は「横須賀から渡ってきた」言いますが、これらは米軍基地のある(あった)エリアです。

1950年代は、米軍基地反対の動きが全国に広がり『内灘闘争』や『砂川闘争』が起こったり「本州の」基地が減少しますが、それ以前の様子が伺える作品でした。

コメント

    • bakeneko
    • 2019年 4月 20日 9:46am

    時代的背景は朝鮮戦争.講和条約によってアメリカ軍が帰還したのではなく、朝鮮戦争によって駐留するアメリカ軍が増強され、警察予備隊、保安隊、自衛隊と名称を変えながら日本が再軍備された時代でした.砂川闘争というのはアメリカ軍が立川基地を拡張しようとしたために起きました.朝鮮戦争により、日本は戦後復興を果しました.戦争によって大儲けして経済復興を果した、そう言う時代でした.

    この映画は木下恵介が脚本を書いたのですが、これでは撮りきれないと、成瀬巳喜男がばっさりと切ってしまったので、分りにくいと言うより、訳の分らない作品になったと思われます.(木下恵介自身が、作品を正しく理解して脚本を書いているかどうか怪しいですが)
    一番最初に、洋が朝帰りをして一緒にタクシーに乗ってきた女、あの女はの日本人相手の契約売春婦のようです.
    ですから、洋がアメリカ人相手の売春婦を盛んに批判しますが、そもそも彼は、そうした行為を批判するものは持ち合わせていません.

    恋文の代筆も、アメリカ兵から送られて来た雑誌の転売も、所詮は売春婦達の上前をはねる行為、売春婦達の収入に頼る行為に外なりません.そんな彼らが、売春婦達を批判することが出来ないのは当然です.
    それだけでなく、皆が勝手に誤解していただけで、道子は売春婦ではありませんでした.彼女は横須賀の進駐軍に勤めているときにアメリカ兵と知り合ったのであり、純粋な恋愛と言えます.
    —————————-
    溝口健二の『西鶴一代女』、松本清張の『点と線』などに見られるように、アメリカ兵相手の女性たちは、パンパンと呼ばれて冷たい視線で見られました.
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    ある人の話
    戦争末期、学徒動員、女子挺身隊で女学生も工場などで働いていて、電車の運転手、車掌、駅員で働いた人もいた.
    学校へ通う電車の駅で、改札係をしている女学生と、互いになんとなく心が通じ合ったような、そんな風に思えた頃、戦争が終わって駅員が復員してきて彼女とは会えなくなった.
    自分は大学生だったが、お金が無かったので休学して働くことにした.少し英語が出来たので、進駐軍の通訳に応募したら採用された.
    しばらくした頃、街を歩いていて、あの女学生が派手な化粧をして、アメリカ兵とジープに乗っているのを見かけたのだった.
    .....
    一年を過ぎた頃のある日、帰りかけると門の所に一人のパンパンの女が屯していた.
    『自分もあの女も同じなんだ』、私は通訳の仕事を辞めて、学校に戻ることにした.
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    英語の才能があれば、通訳、翻訳で稼ぎ、商売の才能があれば商売で稼ぎ、何も才能のない女は身体で稼ぐほかなかった.それだけの話であり、他人から批判されるべき出来事ではなく、そうしなければ生きて行くことが出来なかった、そう言う時代だったのです.

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