「雪崩」は、富豪の家に生まれてひ弱に育ってしまった御曹司を描いた物語です。
父親が息子を叱るシーンで繰り返し出てくる「お前は知識は豊富かもしれんが、それはペラペラの紙のようなものだ」という表現は、実践を伴わないデータの蓄積のようなものを表現していると思いました。
膨大なデータがPCに保存でき、必要な時に必要なものを取り出す事が可能になって、データの解析すらAIの発達で格段に進んだ今日にも通用するような、かなり警告めいたテーマだと思いました。
この映画が作られた頃も大きな変革期であり、かなり情報が氾濫した時代だったのでしょう。
主人公の母親が「私たちとの頃とは全く違って、子供たちは何でも良く知っている」と語る所は、どこか現代とリンクしていると思いました。
こういう時代こそ、心や経験、思考から得られるものの大切さを見失ってはいけないような気がする作品でした。
大金持ちの家の坊っちゃん、五郎(佐伯秀男)
日下五郎は富豪の家に生まれた御曹司ですが、彼は頭でっかちなだけで およそ中身が空っぽな男です。
幼馴染の弥生(江戸川蘭子)とは相思相愛だったのに、彼女が素直に想いを現さない事に腹を立てたのか、蕗子という別の女性と駆け落ちをしてしまいます。
ところが蕗子との恋愛も時が経つと飽きてしまったらしく、五郎はやっぱり弥生が好きだったのだと気が付くのでした。
五郎は再び弥生と会うようになり、今度はお互いの想いを確かめ合います。
そして蕗子との結婚は間違いだったと、父親に離婚の意志を表明をするのですが、父親はそんな身勝手な行動は許さないと言います。
五郎は仕方なく、弥生と密会を重ねるようになりますが、今度は父親が弥生に働きかけて彼女に牽制をするのでした。
このやり方に憤りを覚えた五郎は父親に抗議しますが、すると父親に「そんな不道徳をやらかすのなら親子の縁を切る」と言われてしまいます。
従順で寡黙な妻、蕗子(霧立のぼる)
蕗子は、相当に素直な性格です。
あまりの素直さ故に、五郎や義父には「物足りない」とか愚直な嫁として評価されてしまっています。
ところが蕗子は、決して愚かな女性ではありません。
彼女は、義父が夫の五郎よりずっと頼もしい人物である事を理解しているようです。
二人が駆け落ちをして、その向かった先へ義父が迎えに来た時の事です。
義父は、二人を頭ごなしに叱る事はしませんでした。
かといって、五郎が図に乗って宿賃の支払いを催促すると「それは私の知った事ではない」ときっぱり撥ね付けるのを見て、蕗子は「本当に良いお父様だわ」と心の中で思うのでした。
このエピソードから、蕗子は実は五郎の事をしょうがない奴だと知りつつも、無償の愛を捧げているのだと思いました。
そして、決着のとき
五郎は、父親から親子の縁を切られては、自分はこの先 生きて行けなくなると思ったようです。
そして彼は父親への抗議として、蕗子との心中という手段を選んだのでした。
五郎は、今度は心中をする為に二人が駆け落ちをした名古屋の宿へ向かいます。
ところが、そこで彼は「何も自分まで死ぬ必要はないのでは?」という疑念にかられ始めます。
五郎はこの期に及んで、蕗子に心中を持ちかけておいて、自分だけ逃れようという心変わりをしてしまうのでした。
蕗子は、この旅行を新婚旅行のやり直しか何かのように楽しいものだと思っていたので、五郎に「一緒に死んでくれ」と言われても冗談に取るだけです。
ところが五郎が真剣だと分かると、彼女はすぐさま五郎の心理を理解したようです。
蕗子は、五郎が弥生を想い続けている事もちゃんと知っているのでした。
ただ、そうだからと言ってジタバタしないだけだったのです。
そして彼に対してその事を責めるのではなく、そういう疑いを打ち消せない自分を嘆いて泣くのでした。
蕗子の「あなたが死ねというなら、よろこんで死にます」という言葉には、真実の凄みがありす。
意気地なしの五郎は、蕗子のスケールの大きさに完敗し、弥生への未練も吹き飛んだようです。
1937年公開
この頃の映画には、登場人物の心理描写としてナレーションが入るという表現は殆ど使われていなかったようですが、この作品には心理描写がよく出てきます。
当時としては、かなり新しい演出だったのではないでしょうか。
五郎があまりにも言っている事と考えている事が違うので、こういう効果が必要だったのかもしれません(笑)
そして五郎がブルジョアのぬるま湯にどっぷり浸かっているのに対して、弥生は有産階級の憂鬱や、自立への憧れのようなものを持っているのが印象的でした。
彼女はシベリアの囚人の話を例に出してまで、目的のない人生の空虚さを憂いています。
そしてこの時代の資本主義の拡大に問題意識を感じ、そこに自分の人生との関連性のようなものを見出しているようです。
古代の日本社会は、地位が高い人ほど責任も重く、実力を伴わない富だけが蓄積するという構造にはなっていなかったようです。
日本の税の徴収が米で行われていたのは、それが生モノな為に蓄財が有限だからだという解釈をしている人がいますが、確かに通貨というのは格差を際限なく広げていく恐ろしいシステムなのかもしれません。
2018年のニュースで、世界中の1年間に生み出された富のうちの82%を、豊かな上位の1%の人が独占していて、格差は益々拡大しているという話を聞きました。
弥生の憂鬱は、まともな人間なら当たり前な感覚のような気がしました。
コメント
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文学とは、読んで感じた心で考えるもの.
映画とは、観て感じた心で考えるもの.
父親は母親に、はっきりと言っています.
『今まで子育てを、おまえに任せてきたが、これからは自分がする』と.
息子は妻を殺そうと考えました.どうしてこんなひどい人間になってしまったのか?.
悪い息子だ.確か似そうだけど、なぜんこんな人間になってしまったかと考えれば、親の子育てが悪かったために、こんな悪い人間い育ってしまったのだ、と言うことなのです.
蕗子、この子は何なのだ.自分のことを何にも出来ない人間.これでは自分の力で生きては行けない.彼女も親の子育てが悪かったので、自分で何も出来ない人間になってしまったのです.
結婚するとき父親は弁護士を頼みましたが、私は良く知らないけれど、当時でもそんな馬鹿げた話は無いと思います.
87歳男性
戦前、戦後の映画は現代の殺伐とした映画より人生観のある魅のある良い内容で好きですね