「下町」は、シベリアに抑留された生死も分からぬ夫を、小さな子供を抱えながら待ち続ける女性を描いた物語です。

やりきれないような辛い生活の中でも、ささやかな温かい心のふれあいが残る様子に、人間の本質を見るようでした。

ところが正しくあろうとすればするほど苦しく、どこまでも痛めつけられる母親の運命は、何ともいえない理不尽さを感じてしまいます。

それでもこの悲しい母親を根底で支えているのは、天真爛漫さを失わない子供の持つ生命力だと思いました。

子供だけが生き甲斐の苦労人、りよ(山田五十鈴)

聞き書 女優山田五十鈴

戦後からまだ四年の東京に出てきたばかりの りよは、小さな男の子を抱えて一人でお茶の行商をしながら何とか暮らしています。

夫はシベリアに抑留されたまま、連絡が取れずに生死すら明らかになっていません。
生活の為に都会へ出てきたものの、東京にも不景気の嵐が吹き荒れていました。

いまは友達の家に居させてもらってはいるものの、高い家賃が取れる間借り人はいくらでもいる訳で、友達もりよに“女を売る商売”を勧めてプレッシャーをかけてきます。
隣の部屋を借りている女性は、結核の夫を療養所で静養させる為に、部屋でお客を取って暮らしているのでした。
「こういう時節に、子供を抱えて堅い仕事で生きていくのは もう限界かもしれない・・・」
りよは、だんだんそんな気分になって行きます。

そんなある日りよは行商の途中で、掘っ立て小屋にいる男に、火に当たらせてくれるよう頼みます。
男は親切な人で、何となく話をしているうちに話題が身の上の事になって行きます。
すると、この鶴石という男もシベリア帰りだという事が分かり、りよは何だか親近感が湧いて来るのでした。

一緒にいるだけで心が和む男、鶴石(三船敏郎)

三船敏郎の映画史 (叢書・20世紀の芸術と文学)

鶴石はトラックの運ちゃんで、この掘っ立て小屋で暮らしているのでした。
りよは鶴石が子供に親切にしてくれる事もあって、時々この小屋に訪ねて来るようになります。

鶴石はだんだん子供が可愛くなり、お休みが取れた日に二人を浅草へ遊びに誘いました。
こんな事は滅多にないので、子供は大喜びです。

夜更けに大雨が振り出し、足止めされた三人は宿屋で休む事にします。
子供は遊び疲れて眠ってしまいました。

りよは ふと奥さんはいるのか尋ねますが、鶴石の妻は夫の帰りを待っていられず、他の男性と一緒になっていたのでした。

やっぱり一人では生きていけないのが人間

三人は宿屋で川の字になって寝ていましたが、二人は何となく眠れません。

鶴石は、長年独り身を通して夫を待つ りよが感心な人だと言います。
彼は妻に裏切られた後、何となく女性が信じられなくなっていたようです。

鶴石は、自分の感情を抑えられずに りよの寝床へやってきます。
りよはシベリアの夫の事を考えていましたが、鶴石の情熱と我が身の寂しさに打ち勝つ事は出来ませんでした。

鶴石は りよに対して真剣である気持ちを伝え、共に行きていく約束をします。
りよはどこか不安で恐ろしいような気持ちを抱く一方で、新しい生活への希望が湧いてきます。

ところが鶴石はトラックの事故であっさり亡くなってしまい、りよはまた厳しい戦いを強いられる事になるのでした。

1957年公開

この映画には「異国の丘」という歌がよく出てきます。
この歌は、満州にいた兵士が療養中の仲間の士気を上げるため作曲した曲が、戦後シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われるようになったものだそうです。
映画では、強い望郷の思いが込められたこの歌が、シベリアだけでなく当時の日本でも流行していた様子が描かれています。

シベリアに抑留された兵士の本国への引き揚げは、終戦から11年経った1956年にようやく終了したのだというから驚きです。

この日本がそう遠くない過去に、崩壊寸前にまで追い込まれていた事実を、生々しく今に伝える物語でした。


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