「わかれ雲」は、山奥の農村を旅行していた女子大学生が、小さな旅館で静養するうちに地元の人々との触れ合いによって、人間的に成長していくというストーリーです。

いまいちキャラに魅力がないというのが難点でしたが、最後まで見ていたら、いつの間にかこの世界観に引き込まれていました。
ストーリー展開もややマッタリとしていて、中盤くらいまで見ないと本当の面白さが分からない映画でした。

前半では、都会の生ぬるい女子大生が自分の小さな世界の殻に閉じこもり、イジケてばかりいて ちょっと退屈してしまうのですが、それはもっと面白くなる後半部分の前振りだったようです。

後半では骨のある人々が登場し、真剣に生きる様が描かれていて、どこか意識が高まるような映画でした。

大きな甘えん坊の女子大生、眞砂子(沢村契恵子)

眞砂子は、信州を旅行中に軽い肺炎を起こしてしまい、一人で旅館に残って静養する事になります。
旅館では仲居のおせん(川崎弘子)が、まるで母親のように親切に世話を焼いてくれますが、眞砂子は人並みに気を使う気配もありません。

眞砂子はもう女子大生のなのですが、その性格は幼く、自分の殻に閉じこもってふてくされてばかりいます。

おせんが親しげに話をしていくにつれ、眞砂子の母親は継母だという事が分かってきます。
そして病気が治った頃、その母親が迎えに来るのですが、眞砂子は一緒に帰りたくないと言います。

あからさまに冷たい態度を取られる継母も可愛そうですが、確かに大して年も違わないような若い女性から娘扱いされる様子は見ていて奇妙な感じがします。
若い女性どうしが、お互いどうして良いか分からずギクシャクしている様子です。

「意識高い系」の青年医師(沼田曜一)

おせんや継母が眞砂子にチヤホヤする中で、医師の南だけは眞砂子に厳しく接します。

南にとって眞砂子は甘やかされたダメ女という印象に写りますが、眞砂子はなぜか南が気になる存在のようです。

南は良心的な医者で、志も高い青年です。
優秀そうなのに自ら不自由な山奥へ赴き、田舎の環境に溶け込んで献身的に医療活動に励んでいるのです。

麓の町の仕事だけでなく、もっと小さな集落まで集団検診に行ったり、教育の普及に奔走している人物と交流したりしています。

眞砂子が何かと追い回すのですが、ちょっと迷惑そうです。
基本的には優しいのですが、相手が患者だろうが気に食わない事はバシっと言いたい事を言う、ハッキリした性格なのです。

眞砂子の覚醒

眞砂子は、自分もここへ移り住んで南の手助けをしたいなどと突拍子もない事を言い出します。
南は出来っこないと断るのですが、眞砂子はここにこそ自分の居場所があるように思えてしまうのです。

どうやら眞砂子には、何不自由ないお嬢様という立場や、継母のいる家庭には、どこか居場所が悪かったようです。
ところが南の生き方に共鳴を受けた事で、眞砂子の中で何かが目覚めたのでした。

彼女が本当に欲しかったのは大事に保護される事ではなく、自分が必要とされてるという自己重要感のようなものだったのかもしれません。

1951年公開

1951年といえば、戦後の混乱期がようやく終わり、本格的な復興期への以降期にあたります。

映画は山奥の小さな町が舞台で、これと言って時代を感じさせる要素は少ないのですが、青年の活躍する山奥では、電気もガスも無いような厳しい農民の暮らしがある、という話が出てきます。

こういう厳しい時代にも、困っている人々を救いたいと奔走する人や、そういう人々にスポットを当てた映画があったという、ひとつの歴史を見た気がします。

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