数少ない『農地改革』を描いた映画には、どこか考えさせられるような物悲しさが漂っています。

それは代々引き継がれてきたものを守る人の、大きな時代のうねりの前に為す術もない無力感を表しているせいかもしれません。

日本にとって農地改革とは何だったのか?を考えるとき、映画に描かれた「地主」像は、一つのヒントを与えてくれます。

【小原庄助さん】昔ながらの村長的「地主」像

「小原庄助さん」には、全財産をむしり取られ、村を去っていく旧家の地主が描かれています。

この映画には「農地改革」という言葉は一言も出てきませんが、主人公は「地主」であった事が想像できます。

村一番の家柄の当主で、毎日ノラクラと過ごす通称「小原庄助」は、地元の名士として村人に慕われています。
その様子からは、庄助さんが江戸時代から代々続く「庄屋」や「名主」の家系であったような雰囲気が漂っています。

彼は自ら農業を営んでいる様子はありませんが、かといって単なる資本家という感じでもありません。

お祝いがあれば駆けつけ、若者のスポーツや文化活動には寄付をし、選挙の後援に駆り出されたり、非行娘の説得までお願いされる存在です。
その様子は、小作料を徴収して生活する傍ら、それを色々な形で村人に還元しているという感じがします。

庄助さんには、村の発展や振興の為に力を出し惜しみする様子は、全くありません。
それも必ず影で「応援する」という態度を取り、自らが手柄や名声を手に入れる事もありません。

彼が財力を失っても、借金取りから逃げ回りながら村人に奢ったり寄付をする姿は、悲しくもユーモラスに描かれています。
ところが、しまいには家財一切が競りにかけられ、わずかな道具さえ村の共有になる所まで行くと、さすがに笑えなくなってしまいます。

彼が身上を潰した理由は「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで」という建前になっていますが、この物語は暗に農地改革の様子を描いていると思いました。

【鰯雲】生粋のお百姓である「自作農」の地主

「鰯雲」には、自作農の地主であった『本家』の家庭が、衰退を通り越して貧困に喘ぐ様子が描かれています。

地主であり本家という、農村地帯で高い地位を誇っていた家が、新しい時代の流れに否応なく押し潰されていく姿には、過酷なものがあります。

この本家は、最初に農地改革で田畑を、次いで後継者を、最後には「一族」というコミュニティをという風に、全てを失ってしまいます。

そこには「農地改革」という制度的なものだけでなく「新しい価値観」という破壊要素も加わっている事が見逃せません。

農地を失った本家が権威を保つ事は難しく、子供も親を頼りに出来なければ、どんどん独立していく他ありません。
それと同時に価値観は「何でも自由」という風潮になり、本家も分家も、親も子もフラットな関係と化した事で、一族のまとまりは崩壊してしまいます。

長男が日銭を稼ぐために、元は小作だった家へアルバイトとして雇われる様子は、立場が完全に逆転してしまった事を表していました。

農地改革が、その後の社会に与えた影響

映画だけの話でいえば、どうしてこんな人達を ここまで追い詰める必要があったのか?
という気分になってきます。

ところが当時問題になっていたのは、こういう農村の素朴な地主たちではありませんでした。
それは、農業経営や村の運営から手を引いて「資本家」と化した地主の存在です。

地主制度が確立したのは明治時代のようですが、その意味する所は、それまでは規制のかかっていた土地の私的所有の「自由化」でした。

地主は小作料で得た蓄財で、投機や投資をしながら資本家になって行きました。
一方で小作農は、小作料として収穫高の半分持っていかれ、不作でも地租は固定額の現金払いという苦しい立場です。
地主と小作の関係は「ブルジョア」と「プロレタリア」みたいに、天と地ほどの差が開いたようです。

よく江戸時代の農民が重税に苦しめられていた話が出てきますが、これは後に新政府が行ったイメージの置き換えではないかと思ってしまいます。

農地改革は、個人の財産を政府が没収するという「革命」に近い激しい政策でしたが、結果は悪い事ばかりでも無かったようです。

まず自作農になったお百姓のモチベーションが上がって収穫高が向上し、当時の食糧難の改善に貢献したそうです。
そして社会構造としては、行き過ぎた格差が是正され、豊かな中間層が厚くなったと言えそうです。

ただこの改革は、土地の所有権の問題に終始したもので、徐々に日本の農業が低迷して行った経緯を考えると、農業経営の進展には至らなかったようです。

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