「配給」などと聞くと、戦時下の物が手に入らなく無くなってしまった時代が思い浮かぶと思います。
ところが戦後の映画を見ていると、復興が終わろうとしている頃でも、まだ「配給」という言葉や「ヤミ物資」が出回る様子が出てきます。
奇跡の大復興を遂げた後でも、統制経済の名残があったのか?と不思議に思う光景です。
【33号車應答なし】昭和30年に、まだ「ヤミ米」があった!?
「33号車應答なし」では、お米屋が「配給」や「ヤミ」の注文を受ける様子が描かれています。
闇などと言うと、何やら大きなリュックを背負った「担ぎ屋」とか、怪しげなブローカーをイメージしてしまいますが、そういう類ではありません。
アパートの主婦たちが、御用聞きに来たお米屋に群がり「配給」とか「ヤミ」などと依頼する様子は、いつものお買い物の風景という感じです。
それにしても、この映画が公開された1955年といえば「高度経済成長時代」の最初の年です。
そんな時代にまだ「ヤミ」などという物資があったのでしょうか?
ちょっと疑問に思うシーンでした。
【めし】お米も買えないサラリーマン家庭
「めし」には、物価が高すぎて、満足にお米も買えない暮らしが描かれています。
この映画は1951年の公開で、暮らしはまだ厳しそうです。
長屋暮らしの若夫婦たちの朝の出勤風景に、主食の話題が出てきます。
「外米がすこし臭うかしら?」
というセリフから、配給は輸入米だった事がわかります。
そこへ近所の奥さんが何か売りに来るのですが、妻は
「間に合ってますから・・・」と断ります。
夫が「どうせいるんだろう?今いくらだい?」
と聞く様子から、売りに来たのはお米ではないかと思います。
「160円ぐらいでしょ、とっても買えない」
と言うところを見ると法外なお値段らしく、きっとそれがヤミ価格なのでしょう。
【杏っ子】復興期の「物資の調達」に苦労する様子
「杏っ子」には、まだ十分に物資が手に入らない様子が描かれています。
この映画の設定は、終戦から2年後あたりから始まっています。
この頃なら、まだ「ヤミ物資」が横行していても不思議ではない時代です。
ヒロインの家族はまだ田舎に疎開していて、農家の人からお米を譲ってもらう為に拝んだりしていますw
町には貸本屋を営む兄弟がいて、彼らは こっそりヤミのコーヒーや缶詰を流してくれます。
その弟くんが お米を一俵手配してくれるのですが、彼が
「腕が良いのね、あの人」
と感心されているところを見ると、農家との交渉が上手いという事でしょうか?
当時の状況を知る人ならば分かるらしく、詳しい説明までは描かれていませんでした。
そしてヒロインが結婚して東京の下町で生活を始めると、そこにはお酒を売ってくれる近所の奥さんが出てきます。
「決して私があいだ取ってるんじゃないんですよ」
と言いながらも
「公定の倍でね」
というところを見ると、何か非正規なルートで手に入れているという事だと思います。
「市場原理」にお任せできない領域があった
ちょっと調べてみると、戦時下に行われていた「食糧管理法」の流れで、お米の配給はその後も長いあいだ続いていたという事実を知り、驚きました。
戦後の食糧危機は、1948(昭和23)年くらいには、既に収束に向かいつつあったそうです。
それなのにお米の配給制度が無くなったのはずっと後の60年代で、その後も相変わらずお米を買うときは「米穀通帳」というのが必要だったそうです。
しかも この「米穀通帳」は身分証明書としても有効で、今の年金手帳みたいな使い方が出来たそうです。
米穀通帳が無くてもお米が買えるようになったのは、なんと70年代あたりだったんだとか・・・。
やっぱり食糧というのは安全保障の上で欠かせない要素であり、慎重に国家の元で管理されてきた歴史があるのだと、改めて知りました。
お米はすべて政府が買上げて、それから市場に流通させていた方式が終わったのは1994年(平成6年)で、その後は政府が購入するのは「備蓄用」に限るという方法に変わったのですね。
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