日本経済が歪み始めて久しく、いよいよ「社畜」なんて言葉が飛び交うご時世になってしまいました。
サラリーマンをテーマにした映画は昔からありますが、昭和中期あたりの映画には、なにか今の感覚に通じるものがあるように思います。
50年代の映画には、サラリーマンというものに否定的なメッセージが含まれています。
呑気なオフィスライフや楽しげな余暇の情景がメインの映画でも、どこか憂鬱で虚しさの残る描写があったりします。
これは、それまで農家や職人、商家などから移行する際の「暗い予感」を表しているのではないか?
という気がしています。
ただこの警戒心も「高度経済成長」という未曾有の上昇気流の到来で、忘れ去られてしまったようです。
今回は、そんなサラリーマンを描いた映画をまとめてみました。
【ラッキーさん】夢は「出世」の、ピラミッド構造
「ラッキーさん」には、出世を夢見てすべてを会社に捧げる「モーレツ社員」が描かれています。
主人公の「ラッキーさん」は、異例のスピードで出世コースに乗っている絶好調のリーマンです。
彼はクレバーでデキるタイプというよりは、愚直で地道な頑張り屋さんという感じです。
頭の中は仕事の事・・・というよりは出世の事だけで、人間らしい感性など忘れてしまったように見えます。
そんなラッキーさんに、会長の娘から気に入られるという絶好のチャンスが訪れます。
彼は彼女に夢中になり、令嬢と結ばれると信じて疑いませんでした。
ところが令嬢は、ラッキーさん以上に「身分」に固執していました。
恋愛と結婚とは別だからと、あっさり身分相応の相手と結婚してしまいます。
その後ラッキーさんは希望通り出世を果たしますが、ぜんぜん嬉しそうではありません。
思いがけない「会長の婿」というポジションを取り逃したから、かもしれません。
ただそれよりも、今までは単純に出世する事だけを夢見てきたけど、はじめて人の幸せについてマジメに考え始めたのではないかと思いました。
【早春】余暇の「ガス抜き」あれこれ
「早春」には、サラリーマンたちが抱える、得体の知れない憂鬱感が描かれていました。
主人公の夫婦は、赤ん坊を病気で亡くして以来、関係がギクシャクするようになってきました。
妻はいつもツンツンしているので家は暗く冷たい感じで、夫もどこか冷めています。
夫は近所の仕事仲間とつるんで行動する事が多いのですが、この仲間内もイマイチ盛り上がりに欠けるものがあります。
表面的にはキャッキャしていながら、その実やりきれないダルーなアンニュイムードが漂います。
会社は、出勤時間や業務内容をこなしていれば、生存だけは保証されます。
だから彼らは、そこだけはクリアするものの、それ以上の事は考えません。
彼らの頭の中は、もっぱら「余暇の楽しみ方」に向けられています。
麻雀、飲み会、ピクニックなど、そこそこ楽しもうと思えば楽しめる余裕は残されています。
主人公の夫などは、それでも飽き足らなくて同僚と不倫関係になったりしますが、心は満たされず虚しさだけが残ります。
彼の本音は、戦争中の兵隊仲間との飲み会で、職人をしている友だちを羨ましがるセリフに現れています。
「俺なんか、これって技術は何もないんだ。
クビになりゃ差し当たり、食いっぱぐれだよ。
だいたいサラリーマンなんてものは昔、一銭五厘で集まった兵隊と同じようなもんだ。
人はあり余ってるし、重役になれるのは千人に一人、あるか無しだよ。」
さらにバーに居合わせた定年退職後の老人の存在が、極めつけという感じでした。
彼は自分の人生を振り返り、しきりに後悔しています。
その様子は虚しく、わびしく、まだ生きているにもかかわらず、既に「終わって」います。
そして病気で亡くなった赤ん坊は、どこかリーマンたちの失った「何か」を象徴しているように見えます。
なぜこの人たちは、こんなにも絶望しているのだろう?という疑問が払拭できないような、意味深な物語でした。
【満員電車】大量生産時代の人間「部品化」現象
「満員電車」には、就職氷河期の凄まじい生存バトルが描かれています。
この作品はブラック・コメディの連続で、ある意味ホラーのような内容です。
もちろん誇張とはいえ、あまりにも的を得ていて、思わず自虐的な苦笑がついて出る作品でした。
時代背景としては大量生産・大量消費の幕開けの頃の作品だと思います。
ただこれが、AIに職を奪われつつある現在とカブる面があって、とても他人事とは思えません。
主人公の青年は、最高学府を卒業したエリートです。
ところが やっとの思いで得た職に、その学歴が役に立っているようには全く見えません。
仕事は伝票処理という単純作業で、仕事を効率良くこなすと上司に叱られますw
ツギハギだらけのワイシャツを着て何とか体裁を保ち、社宅の部屋はどう見ても独房、休みの日はそこでただ うずくまっているだけ・・・・
という、まさに囚人さながらの生活です。
そして、そんな生活ですら
「代わりはいくらでもいる、穴をあければポイされる」
という恐怖から、病気になっても這いつくばって出社します。
こんな強制収容所みたいな所に長年いたら廃人になってしまいそうですが、主人公は色々あって とうとう脱落します。
ところが、それが かえって地獄から離脱するキッカケとなる結末に、わずかな救いを感じました。
ラストに小学校の校長先生が、演説で
「勉強するのは、良い事なのです。
いくらでも上の学校があるのですよ。
皆さんの前途は、じつに洋々たるものです。」
というセリフには痛烈な批判が込められていて、思わず感動してしまいました。
満員電車の終点は・・・
この頃のサラリーマンを描いた作品は、漠然とした不安や得体の知れない憂鬱に包まれています。
「この憂鬱の正体は何なのだろう?」という疑問がいつも最後に残りますが、それはハッキリと言葉では描かれません。
「月給が安い」とか「満員電車でモミクチャにされる」とか、嫌な上司に逆らえないとか、時間を奪われるというのは すべて「現象」です。
そもそも「首根っこを押さえられているような」窮屈さ、そのものにあるのではないでしょうか。
ところが今の教育制度は、従順なサラリーマンを育成するためのプログラムで、独立起業マインドを潰すシステムになっています。
おまけに高度経済成長を経た日本人はサラリーマンの生活を手放せなくなり、ますます飼い馴らされて行きました。
ところが、ここへ来て急激に「サラリーマンの憂鬱」の正体が見えてきたように思います。
日本人の多くがサラリーマン化して、組織の下でしか生きられなくなった行く末には、どうやら国民が番号で完全に振り分けられる「超・管理社会」が待ち構えているようです。
今ごろ気付くとは おめでたいと言われてしまいそうですが、それくらい現在 世界中で起こっている「異常事態」は、その意図をむき出しにしています。
現在は、多くの日本人が「カードを作成しない」という方法で、最後の抵抗を続けています。
ところが今回の疫病騒ぎに乗じて、個人番号の強化や行動の制限が推し進められています。
この「魔の手」にかからない為には、いま一度この疫病騒ぎの「本質」を見極める必要がありそうです。