生きる

「生きる」は、死を間近に迎えた男が、自分の人生と真正面から向き合っていく様子を描いた物語です。

今までの自分は眠っているのも同然だった、ちゃんと生きたい!と痛烈に感じるような映画でした。

心の深い部分を揺さぶられるような、多くの人が先延ばしにしている問題について容赦なく切り込んだ作品だと思います。
最初は恐る恐るという感じで見始め、怖いけど先が知りたくなり、最後は何か生きる意味について教えてもらった気がします。

人間はどんなに本気になりたくても、真に生きたくても「恐怖」が先に立ち、それを取っ払うには究極の恐怖である「死」や「苦痛」と向きあう必要があり、残念ながらそこからしか真理を悟る事が出来ない生き物のようです。

死を間近に迎えてジタバタする男、渡辺(志村喬)

市役所の勤続三十年を迎える市民課の課長・渡辺は、皆勤賞・無失敗というような「形の上では」勤勉な人という事になっています。

渡辺は最近 胃の不調を覚えており、病院で診察を受けたところ胃がんで余命幾ばくもないという事が判明してしまいます。
渡辺は大きなショックを受け、恐怖の念にかられ、次第に茫然自失の状態になっていきます。

そんな渡辺が、まず すがり付いたのは息子の存在でした。
渡辺は若い頃に奥さんを亡くしていて、その後は息子を育て上げる事だけを目的に生きてきたのです。
息子にまつわるエピソードが、それこそ走馬灯のように駆け巡ります。

ところが成人して結婚した息子と同居している現在では、若い夫婦にとって自分は煙たい存在であり、退職金などの金銭的なメリットにしか興味を持たれていないという現実を見せつけられてしまいます。
息子の為なら自分の人生など犠牲にしても良い、きっと渡辺はそうして今まで生きてきたのでしょう。
ところが息子の冷たい仕打ちを見て、何かが間違っていた事に初めて気付かされるのでした。

絶望した渡辺は、投げやりになって仕事にも行かずに酒を飲んで過ごします。
そして居酒屋で知り合った三文小説家に、身の上を打ち明けるのでした。
小説家は渡辺の置かれた境遇にいたく興味を覚え、残りの人生を謳歌する手伝いを買って出ます。
小説家は渡辺を夜の街へ連れ出し、女性や博打、ダンスなどの享楽の世界へと渡辺を誘います。
長年 堅い生活を守ってきた渡辺にとっては、全てが驚きの連続です。

ところが、それでも心が満たされる事はありません。
バーのピアノに合わせて渡辺が歌う「ゴンドラの唄」の歌声は、後悔の念で一杯の悲痛な叫びのようで、その場の空気が凍りついてしまうのでした。

志村喬さんの出演している映画


生命力に満ちた、事務員の女の子(小田切みき)

ずっと会社を休んでいる渡辺の元に、役所の若い女の子が訪ねてきます。
聞けば役所が退屈で死にそうで、辞めて他の仕事に就きたいから書類に受領印を付けて欲しいという要件でした。

これを機に渡辺は、ふだん気にも留める事の無かった女の子といろいろと話をする事になります。
そして、今までなら決して気付かなかったであろう、彼女の「ストッキングのほころび」に気が付くのです。
渡辺は彼女に新しいのを買ってやり、彼女は彼女で渡辺が今までと違って「話せる」人に変わっている事を感じて、身の上を語ったりします。
渡辺は、若くて「ただ生きているだけで楽しい」といった風な女の子の様子に夢中になり、食事や映画などを奢って楽しいひとときを過ごすのでした。

ところがこんな関係が長く続くはずもなく、女の子はだんだん気味が悪くなり「もうこんなの止しましょう」と言われてしまいます。
切羽詰まった渡辺は、とうとう彼女に事の次第を打ち明けます。
そして「何故きみはそんなに楽しそうなんだ!?」と迫りますが、答は他愛もない事でした。

「今は役所よりも労働条件が厳しい玩具工場に勤めているけど、こんな仕事でも全国の子供と繋がっているような実感がある。
課長さんも、何かこれから見つければ良い」と言うのです。
それを聞いた渡辺は「もう遅い!」と思い、目の前が真っ暗になります。

ところが次の瞬間、渡辺はまだ自分に出来ることがあるという事に気付きます。
そして、慌ててその場を立ち去るのでした。

覚醒した渡辺の生きざま

渡辺が初めて人生の意味に気付いた場面から、映画は一転して彼のお葬式の場面に移ります。
この展開は、さっきの場面からの経過をすっ飛ばされた事で、見ている側としては胸を締め付けられるような衝撃を受けました。

ところが実際はそうではなく、彼は満足して死んでいったという事が、残された人々の証言をつなぎ合わせていくことで判明していきます。

渡辺が最後に成し遂げた仕事は、不衛生な溝がある事で小さな子供がいるお母さんたちが困り果てているという地域に、公園を作るというものでした。
これは一見小さな話のように思えますが、役所の「縦割り行政」という強烈な慣習に立ち向かって行動を起こすという事は至難の技であり、文字通り「命を掛けなければ」遂行できない仕事でした。

ここで渡辺が発揮した「本気度」は、「スキル」でも「身体を張る事」でもありません。
そこにあるのはただ「執念」、そして「雑念の無さ」だけです。
これを発揮しただけで、周りの人は恐怖を覚えるのです。

まったく協力しようとしない他部門の扱いに、同僚が「頭に来ませんか?」と聞けば「私には人に腹を立てている時間はない」と返したり、夕焼けが美しくて思わず感動したりする様子からは、渡辺が「覚醒している」事が伝わってきます。

じつは、渡辺が公園を作ろうとしている地域には「特飲街」と呼ばれる風俗街を作る計画が持ち上がっているのでした。
渡辺の活動を阻止するために暴力団が脅しをかけに来ますが、彼には通用しません。
とうとう暴力団の親玉が現れますが、彼は渡辺の表情を見て脅しが無駄である事を悟ります。
やはり普段から体を張っている暴力団の親玉ともなると、人の覚悟の真剣度が肌感覚で分かるようです。

そして、とうとう渡辺は公園を作り上げる事に成功するのでした。

最後に、お葬式の場にひとりの巡査が訪れます。
渡辺が雪の降る夜に公園で凍死した事を知り、注意を喚起しなかった自分への叱責の念でお焼香に来たのでした。

ところがこの巡査の証言によると、夜中の雪が降りしきる公園で、ただ一人ブランコに乗っていた渡辺は「あまりにも楽しそうだった」というのです。
それは芯から喜びに満ちた様子で「ゴンドラの唄」を歌っていた、と語るのでした。

1952年公開

渡辺が死の宣告を受けて恐怖し、絶望し、そして最後に襲ってきたのは、深い悲しみでした。

それは「どうしてもっと心の望むままに生きなかったのだろう?」
という、取り返しのつかない人生への後悔です。

彼の止めどなく溢れる涙を見ていると、本当に恐れなければならないのは
「自分だけの人生を、思いのままに生きられない」だという事に気付かされます。

苦い過去を再生したり、将来の不安に怯えたり、他人の目を気にして不本意な人生を送ること、「今この瞬間」をおろそかにする事こそが「死」そのものより恐ろしい事なのでした。

ところが渡辺のお葬式に参列した部下たちは、
「よし、俺も渡辺さんのように悔いのない人生を生きるんだ!」
と決意しながら、結局はみんな以前と同じ灰色の生活を送る姿は、まるで自分の事を見ているようでした。

人間は命の危険にさらされていないと、人生が永遠に続くような錯覚に陥ってしまう所があるのでしょう。
そして人生が有限だと実感するのって、自分自身が危機に瀕したとき以外には、やっぱり身近な人の終末に向き合ったり、寄り添う時だと思います。

ところがいま命の問題は医者という「専門家」に委託され、8割の人が病院で亡くなると言われています。
「死」というものを生活から遠ざける事は、真実の人生に目覚める事も遠のかせてはいないだろうか?という気がしてしまいます。

逆説的のようですが、死というものを日常の一部として身近に置く事だけが、恐怖を克服して悔いのない充実した人生を送る唯一の方法なのではないでしょうか。

黒澤明さんの監督映画


コメント

    • Mai
    • 2020年 5月 26日 2:14pm

    とある方に、このページをご紹介させて頂きました。

    拙い私の文章で伝えるよりも、より強く、爽やかに伝わって欲しかったからです。

    【生きる】意味を考え始めた時に、人は本当の歩みをすると私は感じています。
    私もやはり、渡辺課長と同じように【病によって気づかせて貰いました】。

    それだけに、もう何十年も前に観たこの映画の事がふと浮かび、ネットで調べて一番【琴線に触れた】のがこちらのサイトでした。

    人生を教えて下さり有難う御座います。
    益々のご活躍をお祈り申し上げます。

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