「夫婦善哉」は、昭和7年頃の大阪を舞台に、芸者と若旦那の駆け落ち夫婦が、山あり谷ありの人生を歩む物語です。

この物語の最大のミステリーは
「どうして蝶子は、何度裏切られても柳吉を受け入れるのか?」
だと思います。

ただ、これは蝶子の酔狂と言い切る事もできないような気がします。
それは薄情に見える柳吉にも、どこか憎めないような温かみが見え隠れするからです。

彼は蝶子に、絶大なる信頼を置いています。
まるで何をしても彼女にだけは見捨てられない事を、本能的に理解しているみたいでした。

だから彼女が死んだと思ったとき、彼は母親が見えなくなった時の赤子のようにうろたえます。
そして蝶子もそれが分かるから、結局は裏切りも許してしまうのかもしれません。

血は繋がっていなくても二人はもう家族だし、それが夫婦というものなのでしょう。

かれらの深い縁は、のれんが第一の冷ややかな実家とのコントラストを、くっきりと成しているようでした。

どこか憎めないボンボンのダメ男、柳吉(森繁久彌)

柳吉(りゅうきち)は、船場にある化粧品問屋の若旦那です。

彼は感情豊かな自由人で、家業の継承を重んじるあまり、人間性を犠牲にするような家風に馴染めずにいます。
柳吉には妻も子もありますが、政略結婚で一緒になった妻には愛情を持てずにいます。
おまけに奥さんは病気を患っていて、別居生活が長く続いていました。

ついに柳吉は芸者の蝶子と意気投合し、その仲は駆け落ちをするまでに発展してしまいます。

ところがこの駆け落ちは一時的な気の迷いのようなもので、柳吉には家を捨てて自活する気概などありませんでした。
毎日のらりくらりと過ごす柳吉を支えるのは、芸者の蝶子の役目となってしまいます。

彼は蝶子に甘えるばかりで、彼女に対する扱いはかなり ぞんざいです。
蝶子の貯金を降ろしてお茶屋へ行くわ、ふいに家出するわ、ついには彼女を「おばはん」と呼び始めるのでしたw

柳吉は駆け落ちしたにもかかわらず、店の主に収まる事を諦めてはいません。

いっぽう父親は病気で寝たきりの状態ですが、柳吉が芸者と別れない限り、家の敷居はまたがせないと突っぱねます。
そして柳吉の奥さんが亡くなると、妹に入り婿を迎えて、いよいよ彼を廃嫡にしようとします。

柳吉は蝶子と別れるフリをして、何とか財産をもぎ取ろうとしますが、上手くいきません。
蝶子はそれが「フリ」でなく現実になるような気がして、芝居を打つ気になれないのでした。

森繁久彌さんの出演している映画


まるで母親のような尽くし型の女、蝶子(淡島千景)

蝶子は情に厚く、あくまでもダメ男を支えようとする肝っ玉ねえさんです。

彼女は駆け落ちしてからというもの芸者をやめ、プー太郎の柳吉を養うべく日々奮闘の毎日です。

彼女の母親は、娘が正妻の後釜を狙っているのではないかと心配しますが、蝶子は
「あのひとを一人前の男に出世させたら、それで本望や。」
と、その心意気を露にするのでした。

ところが肝心の柳吉は、オーナーの権利や相続の分前を取ろうと必死で、その為には蝶子も捨てかねない様子です。

それでも蝶子はせっせとヤトナ(臨時雇いの仲居)で貯金をし、ついに二人で関東煮屋(おでん屋)を出します。

店を切り盛りしながら、柳吉があらためて
「しかし、商売ておもろいナア
客が来るたびに銭箱が増えよんのや」
なんて言うのを見ると、いままで若旦那でありながら、店の経営に無関心だった事がバレバレですw

ところが このおでん屋は、柳吉が腎臓を患い手術が必要になった事から、閉店の憂き目をみます。

柳吉の実家に泣きついてはみましたが、それは無駄に終わりました。
それでも柳吉の妹から、父親が心の内では許していると聞き、蝶子は苦しさの中にも希望を抱くことができました。

偶然出会った芸者時代の親友にお金を借りて、今度は「カフェ-」を開いて、再起をはかるのでした。

淡島千景さんの出演している映画


蝶子の「夢」

蝶子の願いは、晴れて柳吉の正式な妻として認めてもらう事でした。
そのためにこそ彼女は、一生懸命に頑張ってこれたのです。

ところが柳吉の父親が危篤という知らせを受けた彼女は、一緒に臨終に立ち会うどころか、葬儀に行く事すら許されませんでした。
どんなに努力しても認めてもらえない事を悟った蝶子は、生きる支えを失ってガス自殺を図ります。

それでも自殺は未遂に終わり、柳吉は実家から追い出されて戻ってくるのでした。

蝶子は最後まで「正妻」の座にこだわり続け、彼女の父親は最初から「船場には勝てん」と悟っていました。

でもこの敵対する者どうしの間には価値観のズレがあるので、じつは最初から決着がついていたのだと思います。

船場側から見たら「信用」というのは、長い時間をかけて積み上げてきた かけがえのない宝なわけです。
だから柳吉には芸者と駆け落ちした時点で、すでに店主に返り咲くという選択肢はありませんでした。

いっぽう蝶子の願いは柳吉と添い遂げる事で、正妻の後釜に収まるつもりは ありませんでした。
親に認められるとか世間がどうのという事は、家督や相続を考慮しないなら さほど重要な問題ではないような気がします。

蝶子が戦っていたのは柳吉の「依存心」で、これこそが一番手強い「敵」だったのではないでしょうか。

「頼りにしてまっせ、おばはん」

という柳吉のセリフには、心もとないながらも二人の新生活の幕開けが感じられ、清々しい気持ちになりました。

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豊田四郎さんの監督映画


1955年公開

映画の冒頭とラストには、ちょっと怖い「おたふく人形」が登場します。
この人形は、物語の舞台となった法善寺横丁に実在していたオブジェだそうです。

そして原作者である織田作之助さんは、この人形を
「大阪のユーモアの象徴」
と言っていたようで、思わず「なるほどなあ・・・」と、妙に共感してしまいました。

そういえば関西弁というのは、物事をやたらと深刻にとらえない作用があるような気がします。
それは、それだけ大阪の人が「遊び心」を大切にしているという事かもしれません。

柳吉は東京へ行った折に、その文化の違いに辟易としていました。
「どいつもこいつも水臭い奴ばかりで、愛想のない町や」
とか
「色気がないなあ、ホンマに江戸っ子は」
と、げんなりしてしまいます。

厳密に言えば、江戸ではなく「維新後の帝都」という事になるのでしょうけど・・・。

関西弁に限らず、方言には何ともいえない独特な愛嬌があると思います。
逆に言うと「標準語」というのは随分と味気無いもので、それは文化にも影響を与えているのではないでしょうか。

日本は近代化する過程で、古来の言語や「やまと言葉」が持っていた微妙なニュアンスや感性が、失われて行った部分があるように思います。

とはいえ英語に比べると、日本語にはまだまだ多様な表現があって、日本人にとっては当たり前の感覚が、海外には無かったりする事がけっこうあるそうです。

どうやら日本文化の特徴は「多様性」に富んでいるという所にありそうで、西洋的な「自然淘汰」という弱肉強食みたいな考えとは相反するような気がします。

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