「浮雲」は、戦後の荒廃した東京で、情熱の失せた男女の赤裸々な関係を綴った物語です。
「中途半端な哀れみは、かえって地獄を生む」という教訓に満ちたような物語でした。
結局、男と女は別れたら即他人なのであって、そこから別の仲になったりする訳ではないようです。
下手に責任を感じたり「良い人」になろうとして中途半端な優しさを発揮してしまうと、別れたくない側からしたら復縁のチャンスとみなされてしまいます。
そうして余計な望みを与える事は、更に相手を苦しめるだけです。
ただ理屈を言えばそういう事なのですが、何故かこの愚かにも見える女の生き方に引き込まれてしまうのが、この映画の不思議さです。
女性には、決して合理的には説明のつかない「情」というものがあって、それが生きる意味になっている所があるように思えます。
自立する事に興味が無い女、ゆき子(高峰秀子)
幸田ゆき子は、どこかいわくありげな女です。
戦時中とはいえ、農林省のタイピストの仕事で仏印(今のベトナム)まで出かけて行くというのは、当時としてもかなり変わった行動でした。
じつは彼女は姉の夫に手を出され、そんな生活をズルズルと続けていましたが、それに嫌気がさして何となく環境を変えたくなったのです。
ゆき子はそこで出会った技師の富岡に見初められてしまいますが、彼は既婚者です。
彼女はまたもや、この男と不倫の関係を結んでしまうのでした。
戦争も末期になり、本国ではかなり苦戦を強いられていた時期ですが、仏印では日本人がまだ大手を振るっていました。
ここでゆき子と富岡は、戦時中という緊張感を欠いた、どこか享楽的な生活を送ります。
そして終戦後、二人は結婚の約束をして別々に本国へ帰還します。
ところが、後から引き揚げたゆき子が富岡の家を訪ねると、富岡は終戦後の日本の酷い有様を見て、妻と別れる事が出来なくなったと言います。
もう状況が変わってしまったのだから、お互い新たに出直そうというのです。
そう言われても、ゆき子にとって富岡はもう家族であり、他に行く所などありません。
富岡は別れても援助すると約束しますが、ゆき子は別れるつもりは毛頭なく、富岡を責め立てるしかありません。
高峰秀子さんの出演している映画
何故かモテまくるダメ男、富岡(森雅之)
富岡は往生際が悪いというか、自分の実力を見誤っているような男です。
彼は自ら農林省を辞め、材木の売買をして独立しようとします。
ところが彼にはビジネスの才覚が無いらしく、儲けるどころか蓄えを全て使い果たしてしまいます。
ゆき子を援助すると言っておきながら、その余裕は殆ど無さそうです。
ところが そんな状態でも、富岡はゆき子を放っておく事が出来ません。
少しでも助けになればと、多少のお金を持ってゆき子を訪ねたりします。
ところが ゆき子の方では、中途半端な援助や愛人のような関係を求めてはいないのでした。
彼女にとって、家族になると信じて付き合っていた相手から愛人扱いにされるのは耐えられない事でした。
結局二人は喧嘩別れになりますが、富岡はこの別れ方が気になり、しばらくするとまたゆき子にコンタクトを取り、急に旅行へ誘ったりするのです。
森雅之さんの出演している映画
絶望してからが本物!?
どうやら富岡という男は、気分の波が激しいようです。
彼は誘っては突き放し、希望をもたせては「別れるべきだ」と言ったりして、ゆき子を翻弄します。
そして極めつけは、旅行に行った先で「心中するつもりで来た」と言いながら、その温泉地で知り合った若い女性に手を出してしまうのです。
この富岡の行動で、ゆき子の中で何かが壊れたようです。
ここから先は、富岡が何をやっても彼女はあまり驚かなくなって行くように見えます。
ところが こんな事を続けるうちに、ゆき子は妊娠してしまいます。
富岡はまたもや「引き取りたい」とか「責任は取る」と言って、ゆき子に希望を持たせてしまいます。
ゆき子もさすがに、あまり期待はしないようになっていますが、それでも彼女が
「でもやっぱり二人で歩いてると、なんだか肉親みたいね。
そう思うのは私の勝手ね」
というセリフは、なんだか痛々しくて泣けます。
成瀬巳喜男さんの監督映画
1955年公開
映画のラストの方で、とうとう富岡は誰も行きたがらないような遠い土地への赴任ぐらいしか仕事が見つからなくなります。
その行き先は屋久島なのですが、映画では「国境の島」と言っています。
不思議な感じがしたので調べてみると、なるほど沖縄の返還は1972年の事だったのですね。
日本が主権を回復したのが1952年なので、実にその20年後だという事に改めて驚かされます。
まるで敗戦後の日本の気分と、男というものに絶望しながら離れられない ゆき子の心理がリンクしているような作品でした。
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